NHKスペシャル「古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る」が2024年3月17日に放送されました。
番組では最新の研究成果や中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述を中心に、邪馬台国の女王「卑弥呼」の謎に迫ります。
[魏志倭人伝]
魏志倭人伝は、三国志で有名な「魏」の歴史書です。当時の日本国内の文字による記録は見つかっていないので、魏志倭人伝は当時の日本の様子を知る貴重な資料となります。
当時の日本は魏から「倭」と呼ばれていて、実際は複数の小さな国の集まりでした。
複数の国の連合政権として邪馬台国連合があり、各国の王たちが女王として擁立していたのが卑弥呼です。
卑弥呼は神の意志を聞く力があるとされていて、魏志倭人伝には「鬼道を使い民を惑わす」とあります。
また、東日本を中心に狗奴国と呼ばれる敵対国があり、日本列島全体が統一されていたようではないということも記されていました。
[纒向(まきむく)遺跡と箸墓(はしはか)古墳]
邪馬台国がどこにあったのか、有力な説としては九州説と近畿説があります。
九州にも吉野ヶ里遺跡など巨大な遺跡もありますが、番組では近畿説を中心に纒向遺跡を取り上げていました。
纒向遺跡は奈良県桜井市にあり、東西2km、南北1.5kmの巨大な遺跡で、ここに都市が作られていたようです。
1年単位で木材の時代を判定できる測定方法として、年輪酸素同位体比という測定方法を紹介していました。木材に30年以上の年輪があれば、その木材がいつ伐採されたのかがわかるようです。
この纒向遺跡で使われている木材について年輪酸素同位体比で測定したところ、231年に伐採された木材が使われていたと推定されました。卑弥呼がいた時代と重なり、纒向遺跡が邪馬台国の都である可能性が高いそうです。
また、纒向遺跡の南に箸墓古墳と呼ばれる全長280mの巨大な前方後円墳があります。
卑弥呼は247年から数年の間に亡くなったとされています(北史)が、箸墓古墳は240年~260年頃に作られたと考えられていて、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとの説も有力なようです。
[東アジアの状況]
当時の日本は思っているより諸外国との交易が盛んでした。
DNAの近縁性を調べると、縄文人と中国大陸人とでは少し遠い関係性ですが、当時の遺跡にある人骨から採取したDNAを調べたところ、この両者の間に位置するDNAを持つ集団もいることがわかりました。
これは、渡来人と縄文人との混血が進んでいたためと推測されます。
当時、中国大陸は三国が争う戦乱の時代で、大陸から朝鮮半島を経由して多くの人が日本に逃れてきました。
多くの難民が来ることで混血も進んだと考えられます。また、彼らは様々な技術や文化も一緒に日本に運んできたでしょう。
すでに稲作や鉄は日本にも伝わっていましたが、大陸や朝鮮半島の様子や最新の技術情報は渡来人がもたらしたと思います。
[親魏倭王]
景初二年(238年)頃、卑弥呼は魏より親魏倭王の称号を与えられます。
卑弥呼は巫女として託宣することで権威を保っていたようですが、それをより強固にするための後ろ盾として魏の権威を求めます。
当時、魏と呉は海上覇権を争っていて、呉は倭国をそのための補給基地にしたかったようです。
魏としては、倭が呉と結ぶよりは、自国の味方にしておいたほうが有利だと判断したのでしょう。魏から見れば小さな国だった倭国に金印まで与えています。
また、箸墓古墳はそれまで日本で作られた古墳には見られない巨大で堅牢なつくりで、やはり中国の技術が影響していると考えられています。
当時の魏の都洛陽の都市建設で使われている、種類の違う土を何層にも積み重ねる技法が箸墓古墳でも使われています。こうすることで、衝撃や雨天に対する耐久性があがることを番組内では実験していました。
番組では最後に、卑弥呼がヤマト王権の初代の王となったという大胆な仮説を紹介していました。
ヤマト王権の王たちは、巨大な前方後円墳を残しています。もし、箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすると、この箸墓古墳こそがその後に続く前方後円墳の始まりだというのです。
日本は長く平和な縄文時代を経た後、渡来人からの文化を受け入れて新しい国へと変わっていきます。
日本がひとつの国になろうと動き始めた時代に卑弥呼がいました。
そして、魏志倭人伝に卑弥呼のことが記されていたのも、意味があると思います。
これを機会に、もう少し古代日本のことを勉強してみたいです。
※アイキャッチの画像は、卑弥呼と各国の王との会議の様子を想像して描いてみました。